『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』を読んだ。村上春樹の小説の英訳出版のプロセスを書いた本でいろいろ考えさせられた。
それにしても変なタイトルだ。どういう意味だ?
初期の英訳には随分と意訳があるというのには、そういうことはあるだろうぐらいの程度だが、『ねじまき鳥クロニクル』ではアメリカ読者が読みやすいように、翻訳者がかなりのアダプテーションを施しているというのには、へーっと驚いた。
第三部は大幅に削除し、ところどころ章の入れ替えをしているということだが、まあ作者が了解しているのであればいいと思うし、私なんぞ『ねじまき鳥』はなんか止まらないジャズの即興みたいに読めて、第二部止まりで十分と思っていたので、第三部のカットには賛同したい思いだ。
日本の小説が海外でヒットするには、これぐらいいろいろ当地の文化、生活に合わせて改変しなければならないのだという現実がよく理解できた。
戯曲の場合、マーケティングがないので出版は当てはまらないが、上演されるとしたら、こういうのと似た事態につきあわされることになるだろうと想像する。
日本人はアメリカ人に、舞台は日本からアメリカに。ディテールはアメリカ仕様で。
となると、これはもうほとんど映画で為されるリメイクに等しい。
となると、劇作家はもうほとんど原作者というクレジットが相応しい。それで原作料をがっぽりいただければ構わないというなら、それはそれとしていいが、それはもうアメリカにおける日本戯曲の翻訳上演ということではなくなるだろう。
ブロードウエイとかウエストエンドとかになれば、ことは翻訳戯曲に止まらず、自国のものの上演に際しても、それ仕様の改変が要求されるだろう。
ブロードウエイ・ミュージカル『ヘアースプレー』を見ると、そこにはジョン・ウォーターズの映画『ヘアースプレー』はと゜こにもない。ウォーターズの名前さえあるのかないのかといった扱いだ。見返りとしてがっぽりもらっているのだろうが、辛味のなかなか噛みきれないホルモン焼きがお子様も食べられるハンバーグになったようなものだ。
こういうブロードウエイ仕様改変を恐れ、嫌い、チャールズ・ラドラムはブロードウエイからの誘いを終生断ったとデヴィット・カウフマンの伝記には記されている。
まあ、私の戯曲がブロードウエイから誘われる恐れと驚きはまずないだろうから、吠える必要はないものの、つまり、いかに日本の戯曲が海外で上演されることは難しいかということだ。リーディングまではいっても上演となるとなかなかにない。リメイクとまでいくとやり過ぎだが、その国用の改変は多少なりとも必要になっていくだろう。
それに比べて日本のほうはと言えばせっせと英米戯曲を訳して、ありがたやありがたやとせっせと正確な上演の努力をし続ける。
なんと、けなげな国民だろうか。英米のみならず、ドイツ、フランスコンプレックスも払拭できてはいないんだけどね、日本の演劇は。
まあ、勉強は必要なんですがね。ちょいとナショナリストになりますね、私は。
2019-02-22 13:29
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いずれにせよ、シュリンゲンジーフの仕事は、演劇行為と社会的直接運動との関係についての思考を召喚する。考えている時間があったら直接、街頭に出て訴え、挑発しろというのが、シュリンゲンジーフの主張のように思え、それは常に社会問題なので、そごが寺山修司とは異なる位相なわけだが、どうもシュリンゲンジーフという人には一筋縄ではいかないある種のいかがわしさを感じる。これは批判ではない。いかがわしさを纏っていなければ、彼はもはや演劇人ではなく、社会活動家だ。だが、もはやその境界などないとする活動が、未来の演劇で同時に社会活動だというのが、畢竟、彼の演劇活動なのだろうか。
2019-02-19 16:01
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ファスビンダーの『13回の新月のある年に』と『第三世代』を見た。『13回』が愛の原理で『第三』が情動の原理とでも言えばいいのだろうか。
これまで日本で未上映でDVD化もされていなかったのは、その原理の強度故の難解さを危惧されてのことなのだろうか?上映された今となっては、そんな問いはどちらでもいいといえばいいが、果てしなく幼稚になってしまった現在における、「わかりにくい」「わかりやすさ」を巡る低級な言説にあえて乗るとすれば、二作とも難解故に批判されるとしたらお門違いも甚だしい。第一に、この映画たちは難解ではない。第二に、難解だとしても、それは映画のせいではなく、人間の人生を描くという無謀な行為においては至極当然だということだ。わかりやすい人生があるものか。あったとしても、それは難渋さを突き抜けた境地につぶやくことのできる、わかりやすさだ。
そうしたわけで、この二作を咀嚼するには、ファスビンダー原理丸出し故の噛みごたえがあり、口当たりはよくない。
しかし、口当たりのいい映画ばかりの昨今、ファスビンダー原理に、しかも映画館で接すると本当にうれしい。今はどこもかしこもセンスのいい映画ばかりだ。思想とセンスが同線上でしのぎを削り合う映画はなくなってしまった。今やある映画を褒めるということは、思想の存在をはなから諦めてセンスの強度にとりあえず満足する素振りを見せることに他ならない。
老婆心ながら注釈しておくと、思想とは政治的スローガン、社会的メッセージを意味するものではない。
まあ、しかし、映画は40年前のものをこうしてきちんと見られるのだからまだいい。
新しく開場されたアップリンク吉祥寺で見た。味気ないシネコンに寄るでもなく、カルト・シアターに安住するでもない、その造りがいい。
さて、ファスビンダーに久しぶりに接して、演劇人クリストフ・シュリンゲンジーフのことを思い出した。去年の八月、イメージ・フォーラムで『フリークスター3000』、『友よ!友よ!友よ!』、『外国人よ、出て行け!』を見た。後の二作はシュリンゲンジーフの行為のドキュメンタリーである。いずれ、これらのことを長文で書きたいと思っている。相当厄介である。が、今となっては単純とも言える。厄介なのはやはり時の経過であって、例えば『友よ!』で開設されたシュリンゲンジーフ主導のホームレス・シェルターは現在どうなっているのだろうか、ということを知らされなければ論じることができない。
『外国人よ』で撮られた難民申請者コンテナは、天井桟敷の市街劇『ノック』の進化型であるが、難民申請者たちが本当のその人たちであったのか、仕込みであったのかあたりを知りたいところである。現地及び研究者のあいだではそれらのことは了解済みなのであろうが、私は知らない。そこらへんの事情などを上映に併せて、どなたか語ったり書いてくれればいいものを、この手のものを手がける人種はやたらもったいぶって情報を小出しにしか知らせない。
それにしても、『外国人よ』で映された市街劇というか「演劇」も、今となっては、こうしたものがまだ成立し得る時代であったという意味合いで、どこかのどかに見えてしまう。
2019-02-15 14:15
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精神を病んだ主人公の劇を書いていると、書いている方に影響があり、ぶつぶつ独り言ばかりを言って挙動不審の気味がある。
夢も妙なものを見る。かつて横浜の家で飼っていたコッカスパニエルのリリが出てきたり、変な展開になる。
2019-02-14 12:54
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アジアカップ、マーヤ散々でしたね。いやあ、カタール強かった。
昨日は浅草の不思議な小屋で芝居を見た。
すでにちょぼちょぼ始めてはいたが、今月から本格的に執筆モードに入る予定。
相撲もテニスもサッカーも終わったし。
ベイスターズの筒香が少年野球の指導への疑問を呈していたが、深く同意する。
私はスポーツ観戦は大好きだが、やるのは大嫌い。指導者の理不尽な恫喝という少年時代の記憶が拭えないからだ。
演劇の指導においても無関係ではない。
恫喝、追い込み指導、演出で演劇をやることが苦痛になったという若者を生み出してしまう場所があるなら、両者にとって不幸きわまりない。
2019-02-02 12:33
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